2005 年のインド映画『BLACK』の字幕翻訳が終了した。
一気に訳してしまった。
スラングがバンバン出てくる映画とは違って、翻訳自体はさほど難しくはなかった。
Google 翻訳者ツールキットも快調で、翻訳環境も問題なし。
この映画、アングロ インディアンの家族の話とあって、台詞の半分ほどは英語だ。アングロ インディアンとは、英国人とインド人との間の子供やインドで生まれ育った英国人を指すらしい。植民地時代に英国人男性とインド人女性の間に生まれた子供の子孫で、差別の対象になっているとも。詳細は知らないが、映画では、メチャメチャな大豪邸(下の写真)で、大金持ちという設定になっている。
インドでも地方へ行くと、英語が通じないと言われる。この映画、インドの地方部ではどうだったのだろう。興行的にヒットしたのだろうか?
それと、気になるのはキリスト教がベースに流れていること。結婚式もキリスト教だし、キリスト教の神の概念がしばしば出てくる。ヒンズー教や仏教は、現実と向き合って努力するという姿勢に欠けるのかもしれない。今世はダメだから来世に期待しようでは、この映画は成り立たない。親の因果が子に報いなどとんでもない。
タイトルの邦訳は、悩んだ挙句に断念した。
この映画の最後で明らかになるのだが、「黒」は目が見えないことによる暗闇の黒以外に、知識の象徴である大学の卒業ローブの色の「黒」でもある。タイトルの訳を「黒」にしようかとも思ったが、なんだかしっくりこないので、それもやめた。
この映画は、アミタブ・バッチャンのための映画でもある。
目も見えず、耳も聞こえないミシェルを、闇の世界から光の世界へ導く教師サハーイ役を見事に演じている。
そして、少女時代のミシェルを演じた子役のアイーシャ・カープルの名演技が印象に残る。目はあらぬ方向を向き、手足をばたつかせて泣きわめき、本当に目も見えず、耳も聞こえない障害児ではないかと思わせる。
どこから、こんな名子役を連れてきたのか不思議だ。それとも、演技指導が素晴らしいのか?
成長してからのミシェルを演じているのは、ラニー・ムカルジー。熱演ではあるが、顔立ちが美しすぎる気がした。間違っても、障害者が美人であってはならないという意味ではない。ただ、彼女が演じると、ミシェルが背負った運命の過酷さが軽減されてしまうように思えてならない。
こんな美人に、それほど過酷な運命が訪れるものかという、バカな男の思い込みだ。許してほしい。
徐々に年をとるサハーイ。やがてアルツハイマー病を発症する。そのあたりからのアミタブ・バッチャンの演技は秀逸だ。見ているうちに、晩年のショーン・コネリーともイメージが重なってくる。
歌もダンスもない。格好いいヒーローも、ヒロインも出てこない。大げさな演技や、わざとらしいギャグもない。およそインド映画らしくないインド映画、それが「BLACK」だ。
目も見えない、耳も聞こえない少女に言葉を教え、闇の世界から光の世界へ導くサハーイの熱意。大学に挑戦し、何年もかかって卒業するミシェル。
アルツハイマーが発症したサハーイは、ミシェルのことも、言葉すらも忘れてしまう。
何もかも忘れてしまったサハーイに、ミシェルは自分の卒業を誰よりも先に伝えたいと思う。
卒業の黒いローブを着て、自分の卒業を告げるミシェル。
そして、再び奇跡が起こる。世の中に不可能はないと教え続けたサハーイ。それを信じて、努力し続けたミシェル。2 人の物語は、この映画が終わってもさらに続くことだろう。
加えて、この映画で特筆すべきは映像美だ。さすがに、サンジャイ・リーラ・バンサーリ監督だけのことはある。
上映時間、インド映画としては短い 2 時間 3 分。 第 1 級の感動大作だ。
日本でも、ぜひ見てほしい映画だ。間もなく日本語字幕が完成する。
日本語字幕で、何とか安く見てもらうことはできないものか、知恵を絞ってみたい。
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