この映画に対する現在の感想だが、一言では表現できない。
何か、非情に複雑なものを見てしまったような気がする。
この映画は、やりこみ型の RPG にも似て、クリアするのは簡単だ。
つまり、本筋のみを追いかけても、そこそこ楽しめるように作ってある。
ユーモアもたっぷりで、笑えるシーンがいくつも登場する。
しかし、コンプリートは難しい。至る所に仕掛けが施してあり、作者は、観客がどこまで気が付くかを試しているように思える。そう、作者は映画を見ている観客を、ニヤニヤしながら見ているのだ。そして、それを楽しんでいる。この映画を最も楽しんでいるのは、観客ではなく、作者自身なのだ。
「Delhi Belly」(デリ ベリー)は、歌と踊りで見せる一般的なインド映画とはまったく異質なインド映画だ。
無駄なシーンを削りまくって 1 時間半近くにまで圧縮してあるだけに、中身は濃厚だ。
簡単に気が付く仕掛けもあれば、攻略本でもなければ永久に分からない仕掛けもある。
この映画が、多くのコアなファンを生み出したのもうなずける。
ネットで Delhi Belly をキーワードに検索すると、この映画の研究サイトがいくつも見つかる。
中身が濃厚なだけに、安易に取り組むと、腹を壊してしまうかも。
ヒングリッシュしか通じない?
この映画では、デリーで 3 人の若者が安アパートの一室で共同生活しているのだが、彼らの間の会話は、ほぼすべてがヒングリッシュ(インド英語)だ。デリー周辺で話されているヒンディー語は、ほとんど出てこない。
映画では何の説明もないが、見る人が見れば分かるのだそうだ。
同居している 3 人の名前は、タシ、ニティン、アループ。
インド人なら、タシという名前を聞いただけでチベット系だと判断できるようで、要するに、自分の出身地の言葉を使うと、ルームメイト同士でも言葉が通じないというわけだ。
インドにはいくつもの言語があり、それらは日本語と韓国語以上に異なる。必然的に共通語が必要になるが、それがヒングリッシュだ。
とは言うものの、この映画では 3 人それぞれ、ヒンディー語も話しているので、互いに通じないことはないだろうにと思う。
一方、この映画で使われているヒングリッシュが一般的なのかどうかは疑わしい。若者の言葉は、昔から下品極まりないとしたものだが、ここまで fuck を多用するのだろうか?
- What is this?⇒ What the fuck is this?
- Open the door!⇒ Open the fucking door!
- これは何ですか?⇒クソッ、これは一体何なんだ、クソッ
- ドアを開けろ!⇒クソッ、このクソドアを開けやがれ、クソッ
- Next time can we please just go to fucking Disneyland?
次は行きましょうね、クソ ディスニーランドへね!
しかし、fuck がやたらめったら出てくると、インド人ならずともうんざりする。もう少し、普通の英語をしゃべれよな。
あらすじ
デリーの小汚い部屋で共同生活するタシ、ニティン、アループの 3 人。
タシにはソニヤという恋人がいた。
映画は、デリー国際空港に飛行機が着陸するところから始まる。
ウラジミールという爺さんから何やら荷物を受け取るソニア。
ソニアは、キャビンアテンダント。荷物検査なしで通過できる。何やら怪しい荷物だ。
気怠い曲「Saigal Blues」が流れ、男ばかりの小汚い部屋が映し出される。
映画に美しさや夢を求める人は、ここで終わり。
映画に美しさや夢を求める人は、ここで終わり。
3 人の部屋を訪れたソニヤは、ウラジミールから渡された荷物を自分に代わって届けるよう、タシに依頼する。
タシはニティンと 2 人で新人タレントの取材に出かける。そこで特派員のメーナカと一緒になる。
取材が済んで、ソニヤの家を訪れたタシ。そこには、ソニヤの両親の他にタシの両親までいる。結婚話しが勝手に進んで、タシとソニヤは 1 カ月後に結婚することに。
ソニヤから荷物を預かったタシ、それを届けるようニティンに依頼する。ところが、ニティンは露店の揚げ鶏を食べて食中毒に。
この映画のタイトル「Delhi Belly」の Delhi は、都市の名前 デリー。Belly はベリー ダンスのベリー、つまり「腹」という意味だ。この映画の場合は「下痢腹」の意味で、ニティンは最後まで、トイレに駆け込んではブリブリやっている(食事中にこの映画を見るのは厳禁)。
さて、タシから荷物を預かったニティン。それを届けるよう、アループに依頼する。
「ついでに、これも届けてくれ」と頼んだのは、検便の検体。医者に検査してもらうのだという。
2 つの依頼を受けたアループ。あろうことか、2 つの届け先を取り違えてしまう。
検便を受け取ったのは、ダイヤの密輸組織。
「親分、これはクソですぜ」
「野郎、なめやがって」
ギャング連中は、ウラジミールを脅してソニヤの電話番号を聞き出す。
ソニヤからタシに荷物が渡ったことを聞き出したギャングは、タシたちの部屋へ。
アループとタシがギャングに問い詰められているところに、ニティンが帰ってくる。
ニティンは病院へ行き、アループが間違って届けた荷物(マトリョーシカ人形)を返されて帰ってきたのだ。
ギャングは、その中にダイヤが入っていることを確認した後 3 人を殺そうとするが、部屋の天井が崩落して、危機一髪で 3 人は助かる。
必死で逃げ出す 3 人。ギャングが追いかけてくるに決まっている。
そうだ、このダイヤを売って、遠くへ逃げてしまおう。そう考えた 3 人は、宝石商にダイヤを売る。
そこへ、ギャングから電話がかかってくる。ソニヤを捕まえていると言う。
「女を殺されたくなければ、1 時間以内にダイヤを持って来い」
宝石商に逆戻りの 3 人。ダイヤを買い戻そうとするが、宝石商は倍の値段でないと売れないと言う。
3 人はメーナカの助けも借りて、4 人でダイヤを取り戻しに向かう。顔を見られないように、イスラム女性のベール(ニカブ)を着用して。
このあたりから、笑えるシーンが連続する。ベールを付けていれば、誰もが女性と思うのだが、ニティンが男の声で怒鳴りまくっている。修道女が「ボケッ! 気~付けんかい!」と怒鳴っているようなもの。腹を抱えて笑ってしまう。
さて、ダイヤを奪い返した 4 人は、ソニヤが捕まっているホテルへ急ぐ。
タシとメーナカは、その途中でキスをするが、それをメーナカの元夫に見られてしまう。
ベールを着用したままキスをしていたので、元夫は女同士だと思い込んでしまうのだった。
ホテルに着いた 4 人は、下のロビーにメーナカを待たせ、3 人でギャングの待つ部屋に行く。
タシはギャングのボスに銃を向けて、ソニヤを開放するように言うが、ギャングたちも銃を構えて動じない。
そこへ、タシたちの後を追いかけてきた警官が入って来て銃撃戦になる。
ギャングと警官は相打ち。3 人は無事ソニヤを救出してメーナカが待つ 1 階へ降りてくる。
一方、メーナカが待っているところへ元夫が表れ、「お前はレズだったのか、誰とキスをしていた」としつこく迫る。そこへ現れたタシは「俺とだ」と答える。
ところが、それが原因でタシとソニヤとの婚約は解消してしまう。
最後に、別れを告げに来たメーナカ。タシはメーナカを愛していたことに気が付き、メーナカにキスをして映画は終了。ご機嫌な曲「I hate you (Like I love you)」が流れてエンディングとなる。
簡単にストーリーを紹介すると以上だが、この映画には、この 10 倍以上の話しが詰まっている。
インド映画の多くは、キャラクタの立て方に甘いところがあるが、この映画は違う。
1 人 1 人の登場人物が、それぞれ個性的に生き生きと描かれている。
そして、それぞれの登場人物に起こる細かな話しが織り込まれ、それらが何層にも重なっている。
自分たちが思いっきり楽しみながら、苦労して作り上げた映画だということが伝わってくる。
この映画を見た人の反応は 2 つに分かれる。
こんな低俗な映画、見る価値もないという人が大勢いる一方で、この映画にはまってしまう人も多い。自分は、後者の 1 人かもしれない(多分、多くの日本人も)。
一通りは訳したものの、まだまだ日本語字幕は未完成だ。
嫌でも、まだ数回は、この映画を見ることになる。
次回から、この映画の面白さを、もう少し掘り下げて紹介できればと思う。
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